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漂着した朝鮮の商人らを助けるために東屋新助が下りた国賀海岸の断崖

 時代は鎖国制度が敷かれていた江戸後期。現在の隠岐島前の西ノ島町に、一身を賭して、海岸に漂着した朝鮮の商人らの命を救った男がいた。東(あずま)屋(や)新(しん)助(すけ)―。約200年の歳月がたってなお、勇敢な行動が色あせることはない。
 1952年発行の浦郷町(現・西ノ島町)史などによると、1820年11月、朝鮮の全羅道霊巖(現・全羅南道霊岩)から、江原道平海(同慶尚北道平海)へコメを運んだ同国の船が、帰路に嵐で遭難したという。
 商人ら8人は、隠岐の国賀海岸に漂着したものの、200メートルを超える絶壁の摩天崖などが立ちはだかり、何も食べないまま、3日間が経過。その後、1人がどうにかがけをよじ登り、浦郷にある常福寺という寺に助けを求めた。
 しかし、折しも同島は悪天候。翌日になっても回復せず、話し合いに集まった役人や村の人々が窮していたところ、「遠い異国の人たちで、言葉が異なるといっても、人としての心は同じだ」と、救出を申し出たのが新助だった。そして、腰に綱を巻いて断崖を下り、1人ずつをつり上げて助けた。
 8人は、松江藩によって、朝鮮との窓口である対馬藩へ送られる前、あらためて新助に会い、神仏を拝むようにしながら感謝の言葉を伝えた。松江藩も、馬に乗せて丁重に護送し、8人は翌年9月に無事帰国した。
 このように、江戸時代などいわゆる近世の日朝間では、遭難した民が漂着してくる例が頻繁にあった。名古屋大大学院の池内敏教授によると、朝鮮から日本への漂着は971件で、うち現在の島根県へが123件。逆に、日本から朝鮮への漂着も、114件(李薫「朝鮮後期日本人の朝鮮漂着と送還」より)あり、出雲、石見、隠岐の民が流れ着くケースもあった。
 国として、互いに漂着民を大切に扱い、送り届けるのは「常識」だったとはいえ、自らの命を顧みず、手を差しのべた新助の行動は、特筆すべきもの。時がたち、地元でも記憶のかなたに忘れ去られがちだが、日韓関係がきしむ中、あらためて脚光を浴びつつある。新助が救助に用いた綱は、両国の民の心をつなぐ「絆」とも言える。
 歴史に埋もれた新助の話を再発掘した、竹島問題研究会副座長で、元松江北高校長の杉原隆さんは「庶民レベルで、日本と朝鮮が互いを尊重し、助け合った証しだ。交流の歴史の一つとして、両国で、人道的な行いをした新助のことを広く知ってほしい」と語る。


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