「銀」「銅」「鉄」王国、島根。

公開されている石見銀山遺跡の大久保間歩。公開区間の最奥部は天井までの高さが約8メートル。
公開のために設けられた鉄柵の奥には竪坑(たてこう)があり、下の坑道とつながっています。
かつての島根県は、今では想像できない別の「顔」を持っていました。それぞれ、時代は異なりますが、「銀」「銅」「鉄」の多彩な金属文化が栄えていたのです。
その証しが、中世の一時期に世界有数の産出量を誇り、
世界遺産に登録された石見銀山遺跡(大田市)、
弥生時代の青銅器が大量出土した荒神谷遺跡(斐川町)や加茂岩倉遺跡(雲南市)、
全国で唯一、今に伝わるたたら製鉄(主な産地は奥出雲地方)です。
戦国時代から江戸時代にかけて日本を代表する鉱山都市として銀生産を担い、東アジア交易において重要な役割を果たした石見銀山-。
石見銀山遺跡は昨年7月、アジアの鉱山遺跡では初めて世界遺産に登録されました。
登録から1年を迎え、石見銀山には多くの見学者が訪れており、より遺跡の姿を知ってもらおうと、
最大級の坑道・大久保間歩(まぶ)の一般公開が4月から行われています。
大久保間歩の一般公開に参加した人たちは「すごい」と、一様に驚きの声を上げます。
公開しているのは、坑口から約150メートルの区間。石見銀山遺跡全体で約600あるといわれる坑道跡のうち、最大級の坑道がこの大久保間歩。
参加者が目を見張るのがその規模の大きさで、江戸時代、初代銀山奉行の大久保長安がやりを持ち、
馬に乗ったまま入った伝説が残っているのもうなずけます。
真っ暗な坑内を入ると、ライトが当たった天井は高さ約5メートルにも達します。
また、江戸時代に銀鉱石を手掘りしたのみ跡と、明治期の再開発で火薬や削岩機を用いた跡が見て取れ、
明治期に敷設されたトロッコの軌道の枕木も残っています。
大久保間歩は、先人が銀鉱石の採掘に汗を流した壮大な銀山遺構を実感できる、まさに世界遺産の中枢といえます。
一般公開は、大田市が石見銀山の新たな魅力創出のため、坑内の環境保全に配慮し参加者を限定して、実施しています。
見学者は「暗くて狭い中で手掘りした鉱夫の苦労とともに、銀を求めた鉱山師の創意、構想に想像を絶するものを感じます」。
また、「手掘り跡と削岩機を用いた跡が1つの間歩で見ることができ、採掘技術の変遷がよく分かります」と話し、
大久保間歩のスケールの大きさに感動した様子でした。
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2008年度 大久保間歩一般公開ツアー ●期間:平成20年11月まで、および平成21年3月 ●実施日:金・土・日曜、祝日。1日4回 ●定員:各回20人(予約制) ●料金:大人3,800円、小中学生2,800円 (バス代、石見銀山ガイド代含む) ●予約・お問い合わせ 大久保間歩予約センター TEL 0854・84・0750 |
| 緑に覆われた大久保間歩の坑口。 一般公開ツアーでは、周辺の坑道を含め、 自然と共生した鉱山遺跡の姿を知ることができます |
石見銀山にゆかりの深い16世紀の銀貨幣 (島根県教育委員会所蔵) |
【MEMO】
石見銀山 欧州で16世紀に作成された日本の地図に、石見は「銀鉱山群王国」と記されています。
そして、江戸時代初め、日本の銀産高は世界全体の産銀の3分の1を占めたと試算され、
最盛期の石見銀山では年間約1万貫(約37・5トン)の銀を産出したといいます。
斐川町の荒神谷(こうじんだに)遺跡と雲南市加茂町の加茂岩倉(かもいわくら)遺跡から出土した大量の青銅器は、
弥生時代に出雲地方を中心に青銅器文化が栄えていたことを物語ります。
荒神谷遺跡は昭和59年、それまでに全国で見つかっていた弥生時代の銅剣の総数約300本を上回る358本の銅剣が出土。
翌年には16本の銅矛と6個の銅鐸(どうたく)が出土しました。
出土した銅剣は、大きさや形が同じ特徴を持ち、出雲を中心に分布していることから出雲型銅剣と呼ばれており、
出雲で製作されたとする説もあります。同様の銅剣は中四国地方のみに分布しています。
平成8年に加茂岩倉遺跡で出土した39個の銅鐸は、一つの遺跡から出土した銅鐸の数としては史上最多です。
13組26個が、全国初確認となる中型銅鐸の内側に小型銅鐸を収めた「入れ子」状態で出土。14個の鈕(ちゅう)(つり手)に、
荒神谷遺跡の銅剣と同じ「×」印が刻まれています。製作場所や流通経路は謎ですが、同じ鋳型で造られた兄弟銅鐸が近畿をはじめ、
各地で見つかっています。
加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡は直線で3・3キロしか離れていません。
7月、加茂岩倉遺跡で出土した39個の銅鐸は一括して国宝に指定されました。
島根県関係で国宝に指定されたのは、荒神谷遺跡出土の青銅器以来、10年ぶりです。
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島根県立古代出雲歴史博物館 |
| 雲南市加茂町の農道建設工事現場から姿を現した銅鐸 (島根県埋蔵文化財調査センター提供) |
加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸 (島根県立古代出雲歴史博物館保管) |
江戸時代から明治時代にかけて、伝統的な製鉄技術「たたら」で造られた島根の鉄が、全国の鉄の半分以上を占めたことがあり、
このころ、島根は全国一の鉄生産地でした。
たたらは、1400年以上前から日本独自に発達した製鉄技術。粘土で築いた舟型の炉に砂鉄(酸化鉄)と木炭(炭素)を入れ、
ふいごで風を送って木炭を燃焼させて砂鉄を溶かし、極めて純度の高い鉄類を生産する技術です。
中国山地には風化した花こう岩のある地域が広がっており、砂鉄が多くとれます。
また、山地が多く、たたらで使う木炭が得られる森林も豊富でした。
中国山地沿いは良質で豊富な砂鉄と山林を背景に有数の鉄の産地として栄え、江戸時代末期には国内の鉄生産の8、9割を占めた、とされています。
江戸時代、天秤(てんびん)ふいごの登場によって高殿たたらが成立し、島根は全国でも主要な鉄の生産地となりました。
たたら製鉄でできた鉄の塊は各地に供給され、最後には農耕具や日常の生活用品などの製品となりました。
中でも奥出雲でたたら製鉄が栄えた要因の一つは、松江藩が鉄師を育成保護したことです。
享保11(1726)年には、数多くいた鉄師のうち、9人だけに操業を許可。藩有林を木炭産出用の山として貸し与えました。
たたら炉一つの操業に必要な山林は3000ヘクタール。
幕末には、鉄師は広大な山林と農地を有する「小領主」となり、大規模にたたらを経営しました。
たたら製鉄は近代に入り、洋鉄に押されて姿を消しました。
昭和52年に復元した奥出雲町大呂の日刀保たたらが唯一、操業を続け、全国の刀匠に玉鋼を供給しています。
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たたらをテーマにした見学、展示施設 |
| 神秘的な光沢を放つ玉鋼 | 炭が投入され、激しく燃え上がるたたらの炎 =奥出雲町大呂、日刀保たたら |
| ●「砂時計」の舞台を訪ねて ●「天然コケッコー」「うん、何?」の舞台を訪ねて |
●キラリ 懐かしのニッポン | ●島根の不思議発見 | ●「銀」「銅」「鉄」王国、島根。 |
| ●宍道湖産ヤマトシジミ ●ごまどうふ(中田商店) |
●しまね移住人 | ●島根温泉紀行 | ●インフォメーションしまね |
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