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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第22回

朴炳渉氏の「明治政府の竹島=独島認識」を駁す

(「北東アジア文化研究」第28号)

 

 前回は、「下條正男が宣伝するような史書の「捏造」や「改竄」はなかった」、と主張した朴炳渉氏の「下條正男の論説を分析する」(韓国・嶺南大学校「独島研究」第4号所収)に対して、それが事実無根の虚偽の記述であった事実を明らかにした。

 今回、朴炳渉氏の「明治政府の竹島=独島認識」(鳥取短期大学『北東アジア文化研究』第28号・所収)を俎上に挙げた理由もそこにある。朴炳渉氏は「明治政府は、竹島・松島を日本の領土外」としていたと主張するが、朴炳渉氏にとっては決定的に不利となる歴史事実については言及を避けているからだ。

 朴炳渉氏によると、「明治政府は、竹島・松島を日本の領土外とする方針を1905年「リャンコ島(竹島=独島)編入」まで一貫して堅持した」(36頁)が、「日露戦争の最中に「時局なればこそ、その領土編入を急務とするなり」との判断から竹島=独島の領土編入を閣議決定した。その際の名分は、竹島=独島は「無主の地」であるというものであった」(49頁)としている。

 そこで朴炳渉氏は、自説の正しさを強調する中で、「下條正男は「竹島外一島」の比定に関する見解を毎年のように変えており異色さが注目される」(37頁)とし、私の見解を「自説を変更」(37頁)、「又もや自説を変えた」(38頁)、「異例」(38頁)等と論難したのである。

 それでは朴炳渉氏がいう「竹島外一島」の比定に関する見解とは、どのようなものなのか。1876年10月、島根県が「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を内務卿に提出し、竹島と松島を島根県に編入すべきか伺いを立てた際、太政官が翌年、「竹島外一島本邦関係これなし」とし、竹島と外一島の松島を日本の領土とは関係がないとしたことを指している。

 だが問題はその4年後の明治14年(1881年)8月、外務省の命を奉じて調査した北澤正誠が「外一島」にあたる松島を欝陵島と断定し、それが明治政府の見解となった事実にある。1877年、太政官指令で「竹島外一島本邦関係これなし」とされた松島は、1881年には欝陵島であったことが確認され、今日の竹島は太政官指令とは「関係これなし」だったのである。

 この事実は、「内務省や外務省、陸軍、海軍、太政官など関係機関が同島を朝鮮領と考えていた」(48頁)とし、竹島の島根県編入を侵略とする朴炳渉氏の主張が瓦解したことを意味する。朴炳渉氏は、「竹島外一島」に関連する私の見解に注文をつけることで、事実の隠蔽を図ったのであろうか。朴炳渉氏は最後のまとめで、結論を次のように結んでいる。


 「その後、帝国主義国家として発展した日本は、日露戦争の最中に「時局なればこそ、その領土編入を急務とするなり」との判断から竹島=独島の領土編入を閣議決定した。その際の名分は、竹島=独島は「無主の地」であるというものであった。これは現在の日本政府が主張する「竹島固有領土」説と相いれないことはいうまでもない」(49頁)


 だが事実は違った。そこで朴炳渉氏の「明治政府の竹島=独島認識」(鳥取短期大学『北東アジア文化研究』第28号・所収)について、その問題点を指摘することにした。

(1)「官撰地誌における竹島・松島」について

 朴炳渉氏は、明治政府が竹島(欝陵島)と松島(現、竹島)を「日本の領土外」とした根拠として、官撰の『日本地誌提要』(巻之五十)の「隠岐」を挙げた。論拠とされた同書の「島嶼」では、島津島や松島に続いて、「隠岐」の属島が次のように列挙されている。


 「大森島。穏地郡津戸村に属す。松島の北弐拾町。周回弐拾五町五拾七間。東西七町。南北五町。○本州の属島。知夫郡四拾五。海士郡壱拾六。周吉郡七拾五。穏地郡四拾三。合計壱百七拾九。之を総称して隠岐の小島と云。○又西北に方りて松島竹島の二島あり。土俗相伝えて云ふ。穏地郡福浦港より松島に至る。海路凡六拾九里参拾五町。竹島に至る。海路凡百里四町余。朝鮮に至る海路凡百三十六里参拾町」


 この『日本地誌提要』の記述から、朴炳渉氏は次のような結論を導き出したのである。


 「この官撰地誌において竹島・松島が本州の属島とは別に記載されたが、これは重要である。両島が本州の属島でなければ、もちろん九州や北海道の属島でもなく、両島は日本の領土外として扱われたと解される」(34頁)


 朴炳渉氏は、ここで本文の「本州の属島」を文字通り本州と解釈し、次に続く「○又西北に方りて松島竹島の二島あり」の竹島や松島を、本州の属島ではない、としたのである。

 だが『日本地誌提要』の「隠岐」で言う「本州の属島」は、「隠岐の属島」を意味している。それは『日本地誌提要』(「隠岐」)の「形勢」の項で、隠岐は知夫島。西島。中島の三島と島後一島の「四島嶼を以て一州となす」とし、「縣治」の項では「全州。鳥取県より兼治す」とするように、一州、全州、本州の州は隠岐そのものを指しているからだ。

 それに「隠岐」に属する島嶼として島津島、松島、大森島の名を挙げ、続いて「本州の属島。知夫郡四拾五。海士郡壱拾六。周吉郡七拾五。穏地郡四拾三。合計壱百七拾九。之を総称して隠岐の小島と云。○又西北に方りて松島竹島の二島あり」と記すのは、「隠岐」には島津島や大森島の他に179の小島が存在し、その西北の方角にはさらに「松島竹島の二島」がある、ことを示しているのである。従って、朴炳渉氏が主張するように、『日本地誌提要』には「竹島・松島が本州の属島とは別に記載された」事実はない。それを「両島が本州の属島でなければ、もちろん九州や北海道の属島でもなく、両島は日本の領土外として扱われたと解」するのは、牽強付会の説である。

 さらに『日本地誌提要』の「隠岐」で、「竹島松島の二島」の竹島(欝陵島)から「朝鮮に至る海路凡百三拾六里三拾町」とするのは、竹島(欝陵島)を日本領として認識していた証左で、そのため朝鮮までの海路を「凡百三拾六里三拾町」としているのである。

 それを朴炳渉氏は、この『日本地誌提要』(「隠岐」)に依拠して、「両島は日本の領土外として扱われた」としたのである。そこで朴炳渉氏はその証拠として、次の田中阿歌麻呂の「隠岐國竹島に関する旧記」(『地学雑誌』明治38年17巻8号)を引用し、「明治時代の地理学者である田中阿歌麻呂もそのように理解」した、としたのである。


 「明治の初年に到り、正院地誌課に於て其(竹島=独島、筆者注)の本邦の領有たることを全然非認したるを以て、其の後の出版にかかる地図は多く其の所在をも示さざるが如し、明治八年文部省出版宮本三平の日本帝国全図には之れを載すれども、帝国の領土外に置き塗色せず」(34頁)


 だがここで、朴炳渉氏は引用文に細工を行なっている。田中阿歌麻呂が「其の本邦の領有たることを全然非認した」とする「其」の部分に、「(竹島=独島、筆者注)」と挿入し、田中阿歌麻呂も「竹島=独島」を日本の領土外の島としたと、したのである。

だがそれは田中阿歌麻呂の意思に背くものである。なぜなら田中阿歌麻呂は、翌年、『地学雑誌』(明治39年第18巻6号)に「隠岐國竹島に関する地理学上の智識」と題する論考を発表し、その巻末の「附記」の冒頭で、次のような訂正をおこなっていたからである。


 「以上の記事によれば本誌第二百号二百一号及び二百二号に掲げたる「隠岐国竹島に関する旧記」の記事は全く竹島の記事に非ずして欝陵島の記事なるが如し」(419頁)


 田中阿歌麻呂は「隠岐國竹島に関する旧記」を発表した翌年、自ら竹島と欝陵島を混同していた誤りを認め、それを「附記」で訂正していた。それを朴炳渉氏は、田中阿歌麻呂が欝陵島と訂正すべきとした箇所に、敢えて「(竹島=独島、筆者注)」と注記したのである。『日本地誌提要』(「隠岐」)を曲解した朴炳渉氏は、田中阿歌麻呂の論文までも改竄し、竹島(欝陵島)と松島(現、竹島)を「日本の領土外」とする論拠としたのである。

 朴炳渉氏には、「明治政府は、竹島・松島を日本の領土外とする方針を1905年「リャンコ島(竹島=独島)編入」まで一貫して堅持した」とする先入見があるため、それが文献の恣意的解釈をさせ、偽りの歴史までも捏造したのである。

 だが竹島と松島を日本領とする認識は、明治時代にも存在していた。それは竹島と松島を日本の西北限(註1)とした『隠州視聴合記』(「国代記」)の影響があるからで、明治八年刊の大槻修平の『再刻日本地誌要略』(註2)もそれを踏襲している。朴炳渉氏は「竹島・松島に関係の深いすべての政府機関は欝陵島と竹島=独島を朝鮮領と考えていたといっても過言ではない」(46頁)とするが、その主張には何ら根拠がない。1877年の太政官指令で「竹島外一島本邦関係之なし」とされた松島は、その後、欝陵島であったことが判明し、「本邦関係之なし」とされた中には、今日の竹島は含まれていなかったからである。

(2)「太政官の竹島外一島版図外指令」について

 1876年、島根県は「竹島外一島」を「管内隠岐国の乾位に当り、山陰一帯の西部に貫附すべきか」として、「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を提出したが、太政官は1877年、「竹島外一島本邦関係これなし」とした。

 だがここには、判断を誤る余地があった。朴炳渉氏自身、「そのころになると、外国の誤った地図の影響を受け、欝陵島を次第に松島と呼ぶ民間人が増えはじめたのである」(44頁)とするように、竹島と松島に対する地理的理解が錯綜としていたからである。それは「太政官指令」等を収録する『太政類典』でも、垣間見ることができる。島根県が提出した「磯竹島略図」には、伝統的な竹島(現、欝陵島)と松島(現、竹島)が描かれているが、島根県がまとめた竹島と松島に関する記事では、松島について述べた直後に江戸時代の竹島(欝陵島)に関連する記事が続くなど、欝陵島を松島と誤認する余地があったからである。

 その端緒は1840年、シーボルトの「日本全図」に、後に幻の島となるアルゴノート島とダジュレート島が描かれ、それぞれ竹島と松島の島名が付記されたことにある。その後、竹島(アルゴノート島)は海図等では「未確認」とされて破線で示され、近世以来、礒竹島・竹島とされていた欝陵島が、松島と表記されることになったからである。朴炳渉氏がいう「外国の誤った地図の影響」とは、欝陵島を松島とし、竹島を幻のアルゴノート島とした当時の地図を指している。今日の竹島を松島とした島根県の地理的理解と、当時の海図等に記された竹島と松島とは、明らかに違っていたのである。

 その海図等の誤謬が修正されるのは、1880年の天城艦の測量によってである。松島を朝鮮の欝陵島とした天城艦の報告は1881年6月、日本人による欝陵島での伐採が問題となった際、外務省の指示で調査した北澤正誠の『竹島版図所属考』に採用され、松島は朝鮮領の欝陵島であったことが判明するのである。

 そこで明治政府は1882年、内務少書記官桧垣直枝を松島(欝陵島)に派遣し、日本人を退去させている。だが朴炳渉氏は、北澤正誠が『竹島版図所属考』で、松島(欝陵島)を「古来我版図外の地たるや知るべし」とした事実を無視し、1877年の「太政官指令」のみを問題として、「内務省や外務省、陸軍、海軍、太政官など関係機関が同島を朝鮮領と考えていた」としたのである。私が拙著『竹島は日韓どちらのものか』で、「今日の竹島を指しているのかそうでないのか、判然としない」と断定を避け、『発信竹島』で「現在の竹島を指していると思う」としたのは、以上のことを念頭に入れてのことである。ただ『諸君』のように、紙幅に余裕がある場合は、前後で根拠を示した上で、「『竹島外一島』は、いずれも現在の欝陵島のことを指していたのである」としたのである。それを朴炳渉氏は「このように自説を何の説明もなしにしばしば変えるとは、あまりにも異例である」(38頁)とするのであるが、それは詭弁である。

(3)「海軍省の竹島・松島認識」について

 朴炳渉氏は、「リアンコールト列岩は『朝鮮水路誌』のみに記載され、同じ時期の『日本水路誌』に記載されていなかったのは特筆に値する」(45頁)として、「水路部がリアンコールト、すなわち竹島=独島を日本領外とみなした」(46頁)証拠とした。

 だがこれは『朝鮮水路誌』の記述を曲解したもので、その主張には根拠がない。明治二十七年刊の『朝鮮水路誌』(「形勢」)では、朝鮮の疆域を「東経一二四度三〇分より一三〇度三十五分に至る」と明記しており、当然、その中には「東経一三一度五十五分」のリアンクールト列岩は含まれていないからである。

 それに朴炳渉氏が『朝鮮水路誌』に記載されているとする「日本海」では、リアンコールト列岩の外に欝陵島(一名松島)とワイオダ岩が記されている。このワイオダ岩は、『朝鮮水路誌』によれば、「露国軍艦ワイオダ号の発見に係れる一孤立岩にして其概位置は北緯四二度一四分三〇秒東経一三七度一七分」にあるとされ、1895年の英海軍海図第2405号を基礎とした「北洲及北東諸島」では、北海道と黒龍沿岸州の間に描かれている。

 ワイオダ岩は日本海内の「暗岩危礁」として記載されたもので、リアンコールト列岩が記されているのも同じ理由からである。『朝鮮水路誌』にリアンコールト列岩が記載されているからといって、それが朝鮮領とした証拠にはならないのである。

 一方、リアンコールト列岩は1849年、フランスの捕鯨船リアンコールト号によって発見され、1851年のフランス海軍の『太平洋全図』では竹島、松島、リアンコールト列岩が描かれている。そこから竹島(アルゴノート島)が消えるのは1876年の英国海軍水路局の「日本‐日本、九州、四国及び韓国沿海岸一部」あたりからで、そこでは欝陵島(松島)とリアンコールト列岩が描かれている。これは太政官指令で「竹島外一島本邦関係これなし」とした前年で、4年後には明治政府も松島が欝陵島であることを確認していた。

 従って新出のリアンコールト列岩は、どこの国にも属さない「無主の地」であったのである。明治政府が1905年、リアンコールト列岩を「無主の地」とし、それを竹島と命名して島根県に編入しても、それは侵略とは言えないのである。なぜなら、韓国側にはリアンコールト列岩を韓国領とする歴史的根拠がなく、これまで韓国側が論拠としてきた『東国文献備考』の分註は、すでに後世の改竄であった事実が実証されているからである。

 近年、韓国側では竹島を韓国固有の領土とし、朴炳渉氏も「これは現在の日本政府が主張する「竹島固有領土」説と相いれないことはいうまでもない」(49頁)としているが、竹島を固有の領土と言えるのは日本のみである。「固有の領土」は北方領土のように、これまでどこの国にも統治されたことのない領土を指し、「無主の地」であった竹島は、少なくとも1905年から戦前まで日本が実効支配をしていた実態がある。日本政府は、竹島を「日本の固有の領土」といえるが、日本の領土を侵略した韓国側には、独島を「固有の領土」とする資格はないのである。

 さて以上述べてくると、「明治政府は、竹島・松島を日本の領土外とする方針を1905年「リャンコ島(竹島=独島)編入」まで一貫して堅持した」(36頁)が、日露戦争の最中、韓国領であった竹島を「無主の地」という名分で、日本領にしてしまった、とする朴炳渉氏の主張には、何ら根拠がなかったことは明白である。鳥取短期大学の『北東アジア文化研究』に掲載された朴炳渉氏の「明治政府の竹島=独島認識」もまた虚偽の歴史を捏造し、歴史問題としての竹島問題を混乱させる、政治的宣伝に過ぎなかったのである。

(注1)『隠州視聴合記』(「国代記」)の解釈については、実事求是6・7等を参照のこと。

(注2)大槻修平の『再刻日本地誌要略』(巻之五)「隠岐」条では、次のように記されている。「抑此国は日本海中西辺の絶島にして、其西北洋中に松島竹島の両島あり。共に朝鮮地方に接近すれども、亦居民統属なく、各方の人時に来りて海猟の場となすと云ふ」。

(下條正男)


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