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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第13回

朝日新聞、若宮啓文氏の罪

 

 朝日新聞(夕刊)は、最近まで「新聞と戦争」を連載し、同社が戦時中、政府の発表を鵜呑みにし、戦争協力をした戦争責任を反省的に報じていた。その朝日新聞が、今また同じ過ちを犯している。7月20日付の若宮啓文氏の「風考計」では、竹島問題を日本の侵略とする韓国側の歴史認識に盲従し、すでに論破されている島根大学名誉教授の内藤正中氏の主張を根拠に竹島問題の争点を曖昧にして、国民の知る権利を侵しているからだ。領土問題である竹島問題では当然、歴史事実が問題となり、報道も真実を伝えねばならない。

 日本は1905年、既に「他国ニ於イテ之ヲ占領シタリト認ムベキ形跡」が無いことを根拠に竹島を島根県に編入した。それを「侵略」とするのであれば、竹島が韓国領であった事実を実証する必要がある。そこで韓国側では竹島を欝陵島の属島とし、512年から韓国領に帰属していたとしてきた。その根拠となったのが『東国文献備考』の分註である。だがその分註は、何度も指摘してきたように、後世の改竄によるもので、15世紀の『世宗実録地理志』や『東国輿地勝覧』の于山島を竹島とする韓国側の主張にも何ら根拠がなかった。

 では韓国側が侵略の根拠とする1900年の「勅令第41号」はどうか。韓国側は、勅令の中の竹島と石島の内、独島の発音に近い石島は独島に違いないとした。だが独島の呼称は1903年頃に始まり、それ以前の独島はリャンコ島と呼ばれ、石島=独島説は成立しない。それに1900年10月の欝陵島の欝島郡昇格は、その6月、視察官禹用鼎が行った欝陵島調査が基になっている。禹用鼎の報告によると、禹用鼎は欝陵島を「周廻一百四五十里」と認識し、調査範囲も欝陵島に限られ、竹島には渡っていない。それは欝陵島を「周廻一百四五十里」とした、1882年の李奎遠の欝陵島踏査を踏襲するもので、李奎遠の『欝陵島外図』には属島として竹島(竹嶼)と島項の二島が描かれている。欝陵島に二つの属島が存在するとする欝陵島像は、『欝陵島図形』(1699年推定)によって確立していたからだ。

 また英国の水路誌に依拠した『朝鮮水路誌』では、朝鮮の東限を「東経百三十度三十五分」としており、東経百三十一度五十五分に位置する竹島は、当然、朝鮮領の外にあった。この事実は、リャンコ島は「無主の地」で、それを竹島と命名して日本領に編入しても、侵略には当たらないと言うことだ。従って日露戦争の最中、竹島を日本領に編入したのは、侵略行為だとする若宮氏の解釈には、根拠がない。これは1877年の太政官指令(「竹島外一島之儀、本邦関係之なし」)を解釈した内藤正中氏が、外一島の松島を今日の竹島と曲解し、竹島を日本固有の領土でないとした謬説に、若宮氏が無批判に従った結果である。

 事実、その松島が、今日の竹島でなかったことは1880年、天城艦の測量で確認されている。その際、松島は欝陵島のことで、竹島は竹嶼のこととされ、1882年の李奎遠の『欝陵島外図』でも竹嶼は、竹島と明記されている。内藤氏の主張には、根拠が無いのである。

以上からも明らかなように、韓国側には竹島の領有権を主張することのできる歴史的権原は無い。ましてや韓国領とは無関係のリャンコ島を日本領に編入したからといって、それを侵略行為とし、日本を非難することはできない。それをあえて侵略や、過去の植民統治に結びつける若宮氏の論法は、偏向報道を続けた戦前の朝日新聞と同じである。

(下條正男)


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