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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第50回

筆写本『大東輿地図』の于山島は、独島に非ず

 韓国の聯合ニュース(電子版)は8月2日、「独島を描いた『大東輿地図』筆写本、また日本で発見」と報じた。すると他のマスコミ各社も追随し、「独島を描いた『大東輿地図』筆写本また発見…韓国領を立証する資料」(「ニュース1」電子版)、「発見された真実の証拠…独島のある『大東輿地図』筆写本」(「韓国日報」電子版)等と競って伝えていた。

 発見者の韓国の慶北大学の南権煕教授によると、「金正浩が1834年に完成した彩色の青邱図を見ると、独島が鬱陵島の右側に描かれているが、これより後代に作られた大東輿地図には独島がない」ので、その「木版本(『大東輿地図』)で抜けていた部分を後代に筆写本を制作して補ったものと推定される」という。

 だが南権煕教授の説明には、違和感がある。南権煕教授は、筆写本の『大東輿地図』に描かれた于山島を独島として何も疑っていないようだが、その前に、欝陵島の横に描かれた于山島が独島であった事実を実証しておく必要があるからだ。

 それに南権煕教授も指摘するように、『大東輿地図』の筆写本で鬱陵島の横に于山島を「補充」したのは金正浩ではなく、別人である。金正浩は『大東輿地図』の刊行と前後して、『大東地志』を編述しているが、その「蔚珍」条を見ると、底本とした『世宗実録』「地理志」や『新増東国輿地勝覧』の「蔚珍県」条にあった于山島が『大東地志』では削除されている。これは『世宗実録』「地理志」や『新増東国輿地勝覧』を底本としながら、金正浩には于山島に対する別の知見があった、ということである。

 それは1760年代に成立した『輿地図書』(「三陟府条」)も同じことで、『世宗実録』「地理志」や『新増東国輿地勝覧』を底本としながら、于山島は載せていないからだ。

 これは1696年の安龍福による密航事件を契機に、朝鮮政府が鬱陵島に捜討使を派遣して、欝陵島の疆域を描いた『鬱陵島図形』を提出させたことに起因する。その『鬱陵島図形』の中で、于山島は、鬱陵島の東2キロほどにある竹嶼のこととされたからだ。金正浩が『青邱図』に描いた于山島は、その『鬱陵島図形』系統の地図に由来する竹嶼で、独島ではないのである。

 それは、『青邱図』や木版本の『大東輿地図』に描かれた鬱陵島の上部に、「東西六十余里南北四十余里周二百余里」とした付記があることで確認ができる。鬱陵島の周回を「二百余里」とするのは、捜討使の朴錫昌が1711年、その『鬱陵島図形』で鬱陵島の疆域を「周回菫可二百余里」としたからで、そこには「所謂于山島」と表記された竹嶼の外に、小島が五つ描かれている。『青邱図』や写本の『大東輿地図』で、于山島(竹嶼)の外に五つの小島があるのは、それが『鬱陵島図形』系統の地図に属すことの証左である。

 それを南権煕教授は、根拠も示さず、筆写本の『大東輿地図』に描かれた于山島を独島としていたが、金正浩が『青邱図』に描いた于山島は竹嶼で、独島ではなかったのである。

 木版本の『大東輿地図』が刊行され、その後、『大東輿地図』が筆写された際、後人達が鬱陵島の横に于山島を描いたのは、南権煕教授の言う「補ったもの」ではなく、「改竄」である。

 南権煕教授等がこの事実に気がつかなかったのは、文献批判を疎かにして、文献を恣意的に解釈していたからである。それを示しているのが、鬱陵島の上部に記された付記(「英宗十一年、江原監司趙最壽啓言。鬱陵島、地廣土沃有人居旧址。而其西又有于山島亦広濶。則所謂西字、與此図之在東相左」(英宗11年、江原監司趙最壽啓してもうす。欝陵島の地は広く土は沃(肥)え、人居の旧跡がある。その西にまた于山島があって、広濶である。すなわち所謂西の字、この図の東にあるのとは違っている)に対する解釈である。

 南権煕教授はこの付記について、「于山島は欝陵島の東側にある」(與此図之在東相左)といった文章は「品格があり、細密な書体」として、この付記を根拠に『大東輿地図』が筆写された時期を、英宗が英祖となる1898年以前とした。だがその解説にも根拠がない。この付記に類した文言は、『青邱図』にも『大東地志』にも存在するからで、『大東輿地図』が筆写される過程で、後人が「品格があり、細密な書体」で書き込んだだけである。

 それも「而其西又有于山島亦広濶」(その西にまた于山島があり、広濶である)とした後に、後人等が新たに「則所謂西字與此図之在東相左」(すなわち所謂西の字、この図の東にあるのとは違っている)の一文を加えたのは、江原監司の趙最壽が「其西又有于山島」(その西にまた于山島あり)とした于山島と、『青邱図』に描かれた于山島とが、全く違う于山島だった事実に、無知だったことの証左である。

 趙最壽が「其西又有于山島亦広濶」とした于山島は、『東覧図』(『新増東国輿地勝覧』「八道総図」)系統の地図に登場する于山島である。その『東覧図』には、鬱陵島の西側に、鬱陵島の三分の二ほどの大きさの于山島が描かれていた。当然、この于山島は独島ではない。

 一方、金正浩が『青邱図』に描いた于山島は、1711年に朴錫昌が描かせた『鬱陵島図形』系統の地図に由来する于山島で、竹嶼のことである。

 木版本の『大東輿地図』を筆写し、その付記で「西字與此図之在東相左」(西の字、この図の東にあるのとは違っている)と書き込んだ人々は、江原監司の趙最壽が、鬱陵島の「其西又有于山島」とした于山島と、朴錫昌の『鬱陵島図形』に由来する于山島(竹嶼)との違いも知らずに、于山島を描いていたのである。

 それを南権煕教授は、「于山島は欝陵島の東側にある」といった文章は「品格があり、細密な書体」などと評して、木版本の『大東輿地図』を筆写した後人達の無知に、さらに上塗りをしたのである。

 『青邱図』では于山島を描いていた金正浩は、木版本の『大東輿地図』では于山島を描かなかった。それは『大東輿地図』の刊行と同じ時期、金正浩が編述した『大東地志』で確認することができる。金正浩は、『世宗実録』「地理志」や『新増東国輿地勝覧』の記事を踏襲して『大東地志』を編述したが、『大東地志』の「蔚珍」条では、『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』にあった于山島が消え、鬱陵島について述べるだけである。

 韓国側の竹島研究には、文献批判といった歴史研究の基本を怠って、文献を恣意的に解釈する傾向がある。韓国側では文献や古地図に于山島が登場すると、それを無批判に独島としてきた。それは『東国文献備考』(「輿地考」)の分註に「于山は倭の所謂松島(現在の竹島)なり」とあるため、それを根拠に于山島を独島としたのである。だが于山島を独島とする唯一の論拠である『東国文献備考』(「輿地考」)の分註は、編纂の過程で明らかにされている。于山島を竹島(独島)とすることのできる文献が、なくなってしまったのである。

 今回、『大東輿地図』の筆写本に描かれた于山島を独島と憶測した慶北大学の南権煕教授をはじめ、清州大学の金聖洙教授等は、いずれも文献学が専門である。その専門家達が文献批判を怠り、文献を恣意的に解釈することは許されない。

 それにこの筆写本の『大東輿地図』の来歴について、南権煕教授は「筆写本内部に平壌府立図書館の登録番号と昭和七年(1932年)に受け入れられた印が捺され」、「20世紀初めまで図書館に所蔵されていたが、日帝強占期か朝鮮動乱等で日本に流出したものとみられる」としているが、これも正確ではない。

 一部の報道によると、筆写本『大東輿地図』の所有者は在日韓国人としており、『大東輿地図』の筆写本には、消却印が捺されていないようである。それを「日帝強占期か朝鮮動乱等で日本に流出したものとみられる」とするのは、感心できない。平壌府立図書館所蔵の図書が、消却印も捺されずに流出するとすれば、それは日本時代が終って以後と考えるべきだからである。それに影像に映し出された筆写本の『大東輿地図』には黴やシミが目立ち、保管状態が悪い環境に長期間、置かれていたようである。一頃、韓国の骨董品市場には中国経由で北朝鮮からの美術品等が持ち込まれていたが、中には墳墓を暴いた盗掘品や盗品が混じっていた。この『大東輿地図』の筆写本も、特別なルートで入手したものと考えた方がよい。

 韓国側では、『大東輿地図』の筆写本のような文献が日本国内で発見されると、そこに日本批判の意味を込めて報ずることが多いようである。8月2日、韓国のSBSニュースは、その冒頭から「日本が歪曲する歴史は、軍艦島だけではないでしょう。独島の領有権の主張もまたその中の一つでしょう。だが彼らの意向とは反対に、鬱陵島横に独島が描かれた大東輿地図の彩色筆写本が日本でまた発見されました」と報じたが、この種の報道姿勢は日本に対する偏見を助長するだけである。これは日韓双方にとって、不幸なことである。

 今回の場合も、『大東輿地図』の筆写本に描かれた于山島を、独島と曲解したことから始まった。金正浩は于山島を独島とはしておらず、筆写本の『大東輿地図』に于山島を描いてしまったのは、文献批判を知らない後代の賢しらがさせたものである。文献批判が不十分なまま、「于山島は独島である」と伝えるのは、韓国側の悪しき慣習である。

 

(下條正男)


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