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島根県令境二郎(斎藤栄蔵)について

はじめに

 

 明治5年島根県の官吏となり、明治9年内務省からの竹島(鬱陵島、後述の竹島もすべて鬱陵島をさす)の地籍の問い合わせに「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」なる伺いの形で回答し、島根県令になっていた明治14年には、那賀郡浅井村士族大屋兼助外一名の「松島開拓願」を内務卿と農商務卿に提出した人物に、境二郎(斎藤栄蔵)がいる。

 彼は長州の萩の生まれで、松下村塾で吉田松陰に学び、吉田松陰の書簡等にもたびたび登場するし、「竹島開拓建言書草案」を幕府に提出した桂小五郎(木戸孝允)とも親交があった。彼が島根県で伺い書に書いた「竹島外一島」とは何を意味するかを検討してみたい。

 

吉田松陰と境二郎(斎藤栄蔵)

 

 境二郎は天保7(1836)年萩藩士の斎藤家に生まれ、斎藤栄蔵と名乗ったが後に境家の養子となり、境二郎と改名した。嘉永3(1850)年には藩校明倫館の兵学教室で吉田松陰に学び、松陰を慕って天保13(1842)年から、長州藩萩城東郊の松本村に開塾していた松下村塾に入塾している。

 「吉田松陰全集」に収録の「吉日録」には、「館中の諸生近日多くは怠惰なり。就中勉強する者二人を得たり。一は正亮なり、一は斎藤栄蔵なり。」と中谷正亮と斎藤栄蔵を勉強に熱心な人物と特筆している。また「丙辰幽室文稿」では「斎藤生の文を評す」と斎藤栄蔵の加藤清正論を長文で批評している。また「丁巳幽室文稿」では「さきごろ士彦と頼氏の古文典刑を読み」と斎藤栄蔵の通称士彦と頼山陽の「古文典刑」を二人で読んだことを記している。

安政5(1858)年7月10日付けの桂小五郎、赤川淡水、久坂玄瑞宛の書簡には「この度は誠に取急ぎ(中略)、高杉晋作二十日出足の筈に御座候。萬端仰せ合され御周旋下さるべく候。同道は山縣半蔵に斎藤栄蔵、嘆ずべし、嘆ずべし。」と上京する高杉晋作や斎藤栄蔵の面倒をみることを桂小五郎等に依頼している。吉田松陰は安政5年12月にいわゆる安政の大獄で逮捕、翌年処刑されているが、安政5年は29才、桂小五郎26才、斎藤栄蔵23才、高杉晋作20才の時である。

 

松下村塾の竹島開拓論

 

 「幕末海防論と「境界」意識」と題する論文を書かれた鳥取大学の岸本覚氏によると、松下村塾での竹島開拓論の開始は安政5(1858)年2月19日の吉田松陰から桂小五郎への書簡での提案だという。そこでは竹島(鬱陵島)開墾は天下無事ならば幕府の利益になるし、海外との事変があったり、朝鮮や満州への進出の時は日本の拠点になるからとしている。そこには前年の安政元年、神奈川条約による函館開港、ロシアとの国境確定問題から生じた海防論が見られるという。これには桂小五郎、村田蔵六(大村益次郎)、久坂玄瑞、福原清助、井上聞多(馨)等が同調した。私は吉田松陰の竹島開拓論には蝦夷とともに、竹島の開拓の重要性を主張し「竹島雑誌」を3回発行した伊勢の学者松浦武四郎の影響もあったと考えている。嘉永6(1853)年9月5日の日付とある坂本鼎斎宛ての書状には武四郎を「此の人足跡天下に遍く、殊に北蝦夷の事に至って精しく、近藤拾蔵以来の一人に御座候」と紹介している。

 吉田松陰の竹島(鬱陵島)についての具体的な認識はどういうものであっただろうか。安政5年7月11日付けの桂小五郎宛て書状がそれを記している。「竹島・大坂島・松島合せて世に是れを竹島と云ひ、二十五里に流れ居り候。竹島計り十八里之あり、三島とも人家之れなく候。大坂島に大神宮の小祀之れあり、出雲地より海路百二十里計り。産物蛇魚類、良材多く之れあり、開墾致し候上は良田美地も出来申すべし。此の島蝦夷の例を以て開墾仰せ付けられば、下より願ひ出で航海仕り候もの之れあるべく候。」がそれである。

 松浦武四郎の「竹島雑誌」が竹島の周回を16里、出雲の島根半島の雲津から隠岐経由竹島までが約120里としていること等から考察すると、竹島から松島まで25里は同じ鬱陵島を竹島(アルゴノート島)と松島(ダジュレー島)とした1840年以降のシーボルトの「日本図」に合致するように思われる。松陰が「万国地図」すなわち世界地図から竹島を確認し、最近まで元禄竹島一件のことは知らなかったと語っていることからも松島も現在の竹島でないことがわかる。岸本覚氏が大坂島を大坂浦とされるが、大坂浦に近い島の意味で竹島とも呼ばれていた竹嶼のこととも思える。

 吉田松陰が処刑された翌年の万延元(1860)年7月2日に桂小五郎と村田蔵六が連名で幕府に提出した「竹島開拓建言書草案」は松下村塾の竹島開拓論の集大成といって良い。まず開拓の必要については、竹島は長門国萩より東北の海上約50里にあって、朝鮮から竹島までも約50里なのでほぼ等間隔にあること、最近外国船が竹島周辺に出現するようになってきており、植民でもして国防を考える必要があること、北前船が下関へ往復する時暴風暴波の折には竹島に碇泊して天気の回復を待っていること、すでに島には日本人が建てた人家が5、6軒はあると聞いていること、かって朝鮮国へお渡しになったという風聞もあるが、朝鮮人の渡海は皆無であること、世界地図を見ると日本と同じ色に着色され、島名も「タケエイ・ララド」と記され日本の属島と認識されていることは明白であること、万一この島が外国の手に落ち植民でもされた時は日本や直近にある長州にとって多大の禍になることは必至であること等をあげている。この竹島開拓建言書草案は幕府の閣老久世広周(くぜひろちか)に提出されたが、藩主からの建白書でないという理由で却下されている。

 

境二郎の「竹島外一島地籍編纂方伺」、「松島開拓願」

 

 犬上県(現在の滋賀県)の官吏を経て、明治5年境二郎が島根県の官吏になって松江に姿を現した。すでに松下村塾での恩師吉田松陰、友人久坂玄瑞、高杉晋作、村田蔵六(大村益次郎)はこの世の人ではなかったが、桂小五郎(木戸孝允)は明治4年11月から不平等条約の改正を求めて、岩倉具視遣外使節団の副使としてヨーロッパにあり、井上聞多(馨)は明治新政府の大蔵大輔の地位にあった。明治9年境二郎が島根県の参事の職にあった10月5日、明治政府の内務省地理寮から「竹嶋ト相唱候孤島有之哉二相聞固ヨリ旧鳥取藩商船往復シ線路モ有之趣」「旧記古図等御取調本省へ御伺相成度」と竹島の地籍の問い合わせがあった。

 島根県はこの年の4月浜田県と合併し、さらに8月には鳥取県とも合併して俗に大島根県と呼ばれる時代に入ったばかりであった。具体的な要望もあったので鳥取藩の元禄時代の竹島渡海に関する旧記、古図を利用した添書を作成し、わずか11日後に「内務卿あて日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」なる表題で島根県令佐藤信寛、参事境二郎の名で回答がなされた。県令佐藤信寛は後日本の首相になる岸信介、佐藤栄作の祖父か曾祖父に当たる人物で、境二郎と長州コンビで島根の行政を担っていた。

 伺いの形で回答された竹島の地籍の骨子は「山陰一帯ノ西部二貫附スへキ哉二相見候二付テハ本県国図二記載シ地籍二編入スル等之儀ハ如何」であった。添付資料の文と図は1ケ月余前まで隣県であった鳥取県の歴史をわずか10日余でまとめたこともあり、誤りも多いものとなってしまっている。例えば、文は大谷家文書によっているが、竹島の発見や大屋甚吉の竹島漂着を永禄年間(1558〜1570)としているけれども原本では永禄は大谷(屋)家が米子へ移住した時とする元号である。また対馬藩の柳川調興(やながわしげおき)が対馬藩で朝鮮への国書の偽造、改竄をしていることを暴露した事件いわゆる柳川一件を「柳沢氏の変」としているし、古図は大谷氏に伝わる享保期のものを縮尺したとしているが、実際は鳥取藩士小谷伊兵衛所持の図であることが判明している。翌年内務省は4月9日付けで最高議決機関の太政官指令として「書面竹島外一嶋之儀ハ本邦関係無之儀ト可相心得事」と島根県に回答した。明治政府は誤りの多い島根県の文章や古図からこの結論を出したのであろうか。実は後述する明治14年佐藤信寛の後任で島根県令となった境二郎が提出した「那賀郡浅井村大屋兼助外一名松島開拓願」にそのことを解決する重要な資料が含まれていた。

 大屋兼助外一名の松島開拓願とは、明治14年東京で土木事業等を展開していた大倉喜八郎の大倉組の社員片山常男と鬱陵島へ渡った那賀郡浅井村(現在の浜田市浅井町)の士族浅井兼助が鬱陵島が「古木稠茂」、「平坦ノ地アリ地味膏腴」、「移住開墾適当ノ地」として「同志ヲ浜田地方二募リ資金ヲ合セ自費ヲ以テ草莱ヲ開キ大ニ遺利ヲ起サン」と島根県に提出した願いである。これを内務卿と農商務卿に提出した県令境二郎は続いて「該島ノ義ハ過ル明治九年地籍編入ノ義内務省ヘ相伺候処、同十年四月九日付書面竹島外一島ノ義は本邦関係無之義ト可相心得旨御指令相成、然ルニ前述当度大倉組渡航伐木候場合ニ就キ推考候得は、十年四月御指令後或ハ御詮議相変リ本邦版図内ト被定候儀二可有之歟」と自分が明治9年に提出した「竹島外一島地籍編纂伺」に触れて疑問を吐露している。すなわち明治9年今回と同じ松島について、島根県の地籍に入れるべきと伺いの形で返答したが、明治10年日本の領土ではないと回答があった。その島で現在大倉組が伐木しているのは、朝鮮国との間にその後合議があって松島が日本領になったのかという問いである。

 この記述から境二郎は明治9年「竹島外一島」と記した「外一島」は松島で伐木可能であるから、鬱陵島のことであったことが確認出来る。また竹島も鬱陵島である以上は「竹島外一島」は「竹島とか松島と呼ばれている鬱陵島」ということになり、明治9年青森県の武藤平学、千葉県の斎藤平右衛門が「松島開拓願」、明治10年島根県の戸田敬義が「竹島渡海願」を鬱陵島に対して提出していることと合致することになる。この島根県令からの願い書を受け取った内務省の内務権大書記官西村捨三は外務省に問い合わせをしている。内容は「島根県ヨリ別紙乙号之通申出候次第ニヨレハ大倉組社員ノ者航到伐木候趣ニ相聞候就テハ該島之義ニ付近頃朝鮮国ト何歟談判約束等ニ相渉リタル義ニテモ有之候哉」と明治10年からこの4年間に朝鮮国との間に松島の所属について変更の合議があったのかと問うたのである。この時西村捨三は明治9年島根県から「竹島外一島地籍編纂方伺」が提出されたので、内務省として検討に必要な資料を整理し、太政官のトップ右大臣三条実美に提出した書類も添付するから参考にして欲しいと、四種類の資料も送付した。四種類の資料のうち、第一号、第二号、第四号は対馬藩の記録『竹島紀事』、第三号は江戸幕府で編纂された『磯竹島事略』からの抜粋で、ともに対馬藩と朝鮮国の鬱陵島に関する話し合いの内容である。この内務省からの照会に外務省外務権大書記官光妙寺三郎は「朝鮮国蔚陵島則竹島松島之儀に付」という書き出しでその後朝鮮国との間に鬱陵島に関する特別の話し会いはないことを明治14年12月1日をもって回答している。

 内務省から島根県への回答は明治15年1月31日になされたことが、最近島根県の『県治要領』の記載から判明した。「三十一日、去年十一月十二日付ヲ以日本海内松島開墾ノ義ヲ内務農商務ノ両卿ニ稟議シ至是内務卿ヨリ其指令ヲ得ル如左書面松島ノ義ハ最前指令ノ通本邦関係無之義ト可相心得依テ開墾願ノ義ハ許可スへキ筋ニ無之候事但本件ハ両名宛ニ不及候事」が全文である。「最前指令ノ通」とは明治10年の「竹島外一島本邦関係無之」と同じだということである。この年来日した朝鮮の政治家朴泳孝が日本人の鬱陵島渡海に抗議すると、明治16年内務省は全国の府県の長官に「日本称松島一名竹島、朝鮮称鬱陵島」という文言を用いて日本人の渡海を禁ずる指令を発した。これらから「竹島外一島」は竹島とか松島と呼ばれている島の意味であることがわかるし、境二郎が学んだ松下村塾の吉田松陰、桂小五郎等の関係者の「竹島開拓」の竹島が鬱陵島で、自分が出した「大屋兼助の松島開拓願」の松島も鬱陵島としているから境二郎も当初から鬱陵島が竹島とも松島と呼ばれていることを知っていたと思われる。

 なお境二郎は島根県令を辞すと、明治17年から萩に帰り松下村塾の保存に奔走したという。

 

 境二郎写真

《写真》境二郎肖像写真【松陰神社宝物殿至誠館所蔵】
 

 

 

(主な参考文献)

・『吉田松陰全集』(大和書房)

・竹島関係資料集第一集『近世地方文書』(島根県総務課)

・『県治要領』(島根県竹島資料室所蔵)

・『島根県歴史人物事典』(山陰中央新報社)

・田村清三郎『明治初年の県政』(今井書店)

・小美濃清明『坂本龍馬と竹島開拓』(新人物往来社)

・岸本覚「幕末海防論と「境界」意識」『江戸の思想第9号』(ぺリカン社)

 


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