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明治16年鬱陵島から退去させられた島根県人について

はじめに

 

 明治15年朝鮮で民衆が日本公使館を襲撃したことを謝罪するために、修信使として朴泳孝が来日した。彼は謝罪後、鬱陵島へ伐木のため多数の日本人が進出していることに抗議した。確かに明治16年山口県の横谷佐一なる人が書いた「松島景況書」(外務省外交史料館『朝鮮国蔚陵島へ犯禁渡航之日本人引戻処分一件』所収)には約400人の日本人が8組の組織で伐木事業を島で展開しており、そのうち5組が山口県勢であると記している。

 明治政府は各府県に対して、明治16年3月31日付け内務卿山田顕義名で「北緯三十七度三十分西経八度五十七分ニ位スル日本称松嶋一名竹島、朝鮮称蔚陵嶋ノ義ハ従前彼我政府議定ノ義モ有之日本人民妄ニ渡海上陸不相成候條心得違無之様其管下ヘ諭達可致此旨及内達候也」と訓令した。島根県では当時の県令境二郎が同年4月14日付けで県下の町村に布告している。明治政府はまた具体的状況の把握を山口県、福岡県等に命じた。山口県関係については、山口県文書館所蔵の膨大な関係史料を木京睦人氏が整理し「明治十六年『蔚陵島一件』」と題する論文にまとめ、2002年『山口県地方史研究』に発表されている。

 結局明治政府は正確な情報掌握が困難と認識すると9月から官船の派遣による日本人全員の強制帰国の検討に入り、9月19日には外務卿井上馨が朝鮮の元山領事副田節に朝鮮政府に官船派遣の決定を通知するよう命じている。

 今回外交史料館所蔵の「朝鮮国蔚陵島ヘ犯禁渡航之日本人引戻処分一件」なる史料の中に、政府が用達した共同運輸会社汽船「越後丸」で鬱陵島へ渡った政府の責任者である内務省書記官桧垣直枝の『蔚陵島出張復命書』(以下『復命書』と略す)を発見したので、この事件の詳細について紹介してみたい。

 

1.鬱陵島からの強制帰国の状況

 

 『復命書』によると、桧垣直枝は随員の内務省から2名、外務省から1名、警察関係者26名と明治16年9月27日品川を出発し、29日神戸港、10月2日に赤間関に到着している。ここで鬱陵島に詳しい者数名を案内人として雇い、また渡島している日本人に帰国を説得する手立てを話し合っている。10月6日正午、赤間関を出航して翌7日午前9時鬱陵島の東北岸の阿陸沙(アリクサ、他の明治期の地図は沙洞の字を当てている。道洞に隣接する港である。)に到着した。近くの中谷という地名の日本人居住区にいた40名余の人を集めて帰国を説得したが、彼等は伐採し終わった槻(けやき)を持ち帰れるようにして欲しいと言った。島に居た朝鮮人の幼学という職の裴忠隠がやって来たので来島の趣旨を伝えた。島長の全錫奎は病気とのことであったが、後日船にやって来たので対応出来た。伐採事業を展開していた旭組等6つの組の組長もやって来たので、配下の者に伝達し帰国に協力するよう依頼した。8日になって暴風雨の来襲があったので、いったん元山津に避難した。14日になって再び鬱陵島の阿陸沙に帰り、集まっていた日本人を乗船させた。総人数は255人であった(木京睦人氏の論文には総勢244名となっているがカウントの時期が異なる可能性がある)。この島に居る朝鮮人はおおよそ60余名で、日本人の恩恵を受けて生計を立てている者も多く、日本人の帰国を聞くや愁容を顔に表わし哀情をかくさず、まるで兄弟親友と別れるかのように或いは行李を抱え、或いは荷物を背負って海岸まで送って来た。日本人も彼等の窮状を察してひそかに米等の包みを手渡していた。島長全錫奎は日本人が伐木した木材を盗伐視せず、随意に本国へ搭載して帰国することを許可した。日本側も暴風雨等の緊急時に利用するようにと、白米四斗二升、俵廿五包を手渡した。14日午後5時30分鬱陵島を出発し、翌15日午後2時赤間関に着いた。以上が桧垣直枝の復命書の大要であるが、その他に島長、幼学との応接の内容、鬱陵島の地図、県別の氏名の列記等も添付されている。

 

2.帰国させられた島根県人について

 

 帰国した日本人は県別に愛媛県14名、広島県21名、島根県22名、福岡県34名、山口県134名、長崎県9名、鹿児島県4名、大分県3名、鳥取県1名の氏名、年齢、身分(平民が大半だが一部士族もいる)が列記されるが桧垣の復命書の総勢255名とは一致しない。島根県人22名については氏名一覧に22名の氏名が連記されている。また各自が住所と氏名を記載申告した書類もあるががそれには20名分が残っている。プライバシーに配慮し個人名は省き住所の市郡町村名、年齢を記してみれば、那賀郡後地村34才、20才、三隅村33才、浜田町22才、18才、邑智郡渡村28才、谷住郷村28才、17才、亀谷村29才、上川戸村23才、都賀村31才、田窪村26才、美濃郡西平原村34才、18才、邇摩郡馬路村29才、安濃郡川合村28才、大田村25才、松江市新材木町26才、19才である。申告していない2人の内1人は病死、1人は警察が事情聴取中失踪とある。

 これらから気がつくことは松江市の2人をのぞけば石見地方の若年層の人たちばかりである。8組の伐木のグループの内5組が石見地方に隣接する山口県の関係者で組織されていたことから、地縁で雇われた人達と推測される。明治25年以降になると日本人で鬱陵島で最初に越冬したといわれる脇田庄太郎を始め、島根県人で鬱陵島へ渡るのは隠岐の人達が中心に変化していく。

 

 

渡海禁止の通達

 

写真1.明治16年県令境二郎が県下の各市町村に布告した鬱陵島渡海禁止の通達

(飯南町所蔵)

 

朝鮮国蔚陵島へ犯禁渡航之日本人引戻処分一件

 

写真2.「朝鮮国蔚陵島へ犯禁渡航之日本人引戻処分一件」綴り

(外務省外交史料館所蔵)

 

復命書

 

写真3.桧垣直枝の『蔚陵島出張復命書』

(外務省外交史料館所蔵)

 

 

欝陵島図

 

写真4.『蔚陵島出張復命書』に添付されている「蔚陵島図」

都房廰が道洞(外務省外交史料館所蔵)

 

 

 


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