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津和野出身小藤文次郎と朝鮮  ― 田淵友彦の『韓国新地理』にもふれて

はじめに

 私は津和野町出身の森潤三郎が明治37(1904)年『朝鮮年表』を刊行したこと、同郷の宮崎幸麿が明治33(1900)年から明治42年にかけて史伝や昔の地理、風俗等を38冊の『好古類纂』に編纂し、「諸家説話」の部では自ら「石見海に竹島といふ島あり、我旧津和野領たりし」で始まる「竹島」という一文を載せていることは過去に自著や島根県のホームページにレポートとして発表したことがある。宮崎の言う竹島は鬱陵島のことであり、旧津和野藩の属島というのは津和野藩主亀井氏が鳥取の鹿野城主であった時、文禄・慶長の役に参軍し、鬱陵島を侵略したことを指す。

 最近地質学者として知られる同じ津和野町出身の小藤文次郎が1903年「KOREA」と表記する朝鮮全図を刊行していることを知った。小藤は別に『地学雑誌』(東京地学協会)創刊号から「普通地理学講義」なる論文を9回連載(1889年~1890年)したし、1901年から1902年に「朝鮮南部の地勢」(13巻6・7号)、「朝鮮北部の地勢」(14巻6号)、1908年には『朝鮮地質旅行記』を発表している。この時期には1900年大韓帝国が、勅令41号で鬱陵島と石島、竹島(竹嶼)を欝島郡にしたし、日本では1905年リアンクール島と呼ばれていた現在の竹島が明治政府の閣議決定で島根県の所属となり、竹島の島名も正式に決まっている。直後の1906年には島根県調査団が竹島、鬱陵島を訪問もしている。こうした後世竹島問題で重要視される時期、小藤の地図や地質・地理に関する論文はどういう意味を持っていたか等を以下に検討してみたい。

 

小藤文次郎の写真

1,小藤文次郎(『津和野町史』掲載)

宮崎幸麿の写真

2,『好古類纂』を編集した宮崎幸麿(右端)(個人所蔵)

  森潤三郎の写真

3,『朝鮮年表』を書いた森潤三郎(左端)右端は兄の森外(森外記念館所蔵)

 

1.小藤文次郎について

 まず小藤文次郎(ことうぶんじろう)の略歴をまとめておく。小藤文次郎は安政3(1856)年3月4日、鹿足郡津和野の後田新丁で生まれ、幼少期は津和野藩藩校養老館で漢学、蘭学等を学んだ。明治3(1870)年藩の貢進生として上京し大学南校に学び、明治10年東京大学が開設されるとその理学部地質学部に編入した。当時の地質学の教師はドイツ人のナウマンで、彼から小藤は薫陶を受け明治12年東京大学地質学科の第一回生でただ一人の卒業生となった。卒業後内務省御用掛となったが明治13年文部省からドイツ留学を命じられ、渡欧しライプチッヒ大学、ミュンヘン大学で学び明治17年帰国した。ライプチッヒ大学からはPh.D.(PhilosophiaeDoctor)の博士号を授与された。しばらく農商務省御用掛兼地質調査所勤務をしたが、明治19年帝国大学令が公布されると東京帝国大学理科大学の地質学教授に任命された。同僚には鉱物学の和田維四郎、古生物学担当の原田豊吉等がいた。小藤の研究は地質学から地震までと多岐にわたったが、明治24年10月濃尾地震が起こり、多くの死人がでると震災予防調査会の委員に抜擢された。明治32(1899)年には東京学士会員に選ばれている。小藤の研究は岩石学にもおよび兵庫県城温泉近くの玄武洞を調査し、その一帯の岩石を1884年玄武岩と彼が命名したし、朝鮮の調査で発見したものには小藤石の呼称のあるものもある。岩石の調査は朝鮮、満州、台湾等日本の近接地域も対象とされた。その成果は『ロンドン地質学会誌』等にも数多く発表され、彼の論文は英文で記されたものが多い。日本国内でも大正9(1920)年学術会議の地質学地理学部の部長に推され、後東京大学名誉教授となり研究を続けたが昭和10年3月8日東京の自宅で逝去している。享年80才であった。その折「小藤先生の長逝を悼む」とする弔文を小川琢治は『地球』に、辻村太郎は『地理学評論』に載せている。

 略歴は以上のようになるが、専門的内容を中心に小藤の業績をまとめられているものに1965年通商産業省地理調査所監修「地下の科学シリーズ7」に今井功の「黎明期の日本地質学ー先駆者の生涯と業績」がある。そこにはコワニエ、ライマン、ナウマンの外国人研究者と和田維四郎、原田豊吉、巨智部忠承、小藤文次郎の日本人4人の研究成果と個人的歴史がまとめられている。また日本地質学会が刊行した『日本の地質学100年』には葉山好和が「小藤文次郎の業績」を書いている。

津和野郷土館の写真

1,小藤文次郎の資料を所蔵する津和野町郷土館      

小藤氏の生家跡に建つ記念碑の写真

2,現在生家跡に建つ記念碑      

今井功の論文の写真

3,今井功の論文「黎明期の日本地質学」より

 

2.小藤文次郎と朝鮮

 小藤文次郎は明治33(1900)年朝鮮の慶尚道、全羅道、忠清道、京畿道、江原道の五道を、翌34年には咸鏡道、平安道、黄海道を地質、岩石等の調査旅行をしている。その成果は明治34年から『地学雑誌』、翌年の『東邦協会会報第86号』、明治41(1908)年『朝鮮地質旅行記』に発表されている。これらには一貫して『経済 第十四号合併記念朝鮮号』に書かれた「太古は朝鮮と日本と地続きなり」の確認作業が見られる。1976年立岩巌がまとめた「朝鮮ー日本列島地帯地質構造論考」には、この時の小藤の調査旅行が総計14ケ月に及んだことや彼が1903年に発表した「朝鮮地質構造図」は長らく研究者の指針になったことがふれられている。2008年千田稔が編者となった『アジア時代の地理学』(古今書院)もこの時代の小藤の活動と業績に紙幅を多く割いている。

 また小藤は明治36(1903)年朝鮮全図である「KOREA」を作成して発表した。地名等すべてが英語で書かれており東端の鬱陵島も「UL-LEUNG-DO(Matsu-shima)」と島の右下に記載されている。図全体は小藤も会員だった東京地学協会が明治27(1894)年刊行したすべて地名は漢字の「朝鮮全図」に類似している。共に茶褐色の彩色で地形の高低を表示している。この年日清戦争が勃発し朝鮮全土が戦場になり、すべての従軍兵士が朝鮮の地図を携帯したし、日本本土では戦況を新聞で見る時に朝鮮の地名を確認したがる風潮があったので、数多くの「朝鮮全図」が作られている。東京地学協会のものは鬱陵島の下部に鬱陵島(松島)と縦書きで書かれている。その翌年前記の森潤三郎刊行の『朝鮮年表』にも巻末に折りたたんだ「朝鮮全図」が載っている。上記の図とほぼ同じだが着色のない白黒の図で、すべて日本語の表記になっており鬱陵島は横書きで鬱陵島(松島)とされている。この3つの朝鮮図の前後の時期には鬱陵島が竹島(アルゴノート島)と松島(ダジュレー島)の二つの島として描かれているものもかなりあるが、この3つの図は竹島(アルゴノート島)が存在しないことを正しく表示している。

地質構造図の写真       小藤の朝鮮図の写真       田淵の朝鮮全図

1,小藤が作成した「朝鮮地質構造図」   2,小藤の朝鮮図「KOREA」        3,田淵友彦の「韓国全図」

 

3.田淵友彦の『韓国新地理』と小藤文次郎

 現在の鳥取市出身で明治8(1875)年に生まれ、旧制鳥取一中を卒業後に上京して東京帝国大学史学科で学んだ人物に田淵友彦がいる。彼は明治38(1905)年9月『韓国新地理』なる著書を刊行した。その冒頭には「韓国全図」という地図が掲げられているが、その図には同年2月明治政府の閣議決定によるリアンクール島と呼ばれていた隠岐の西北にあった島が竹島の名で隠岐島司の所管になり島根県知事から布告されたことを反映して竹島の名称がリヤンコールト岩というフランス語名の括弧付と共に載っている。続いて「序」として「韓国が日本の附属国たり保護国たるに於て世界は既に悉く之を公認し是認したり」、「私見を以てすれば戦後の学術界及び教育界は樺太と共に韓国及び満州の一部の如きも従来之を外邦視して研究し教授したるを更改し之を本邦範域一部視すべきの必要あらん」、「韓国山脈の布置及び系統に就きては先年小藤博士の実地調査の結果を公にせられたるものあり、本書も亦専ら此報告に依據するの便益を得たるは感謝する所なり」と、「韓国新地理」の著書名に新地理としたのは小藤文次郎の韓国踏破による新しい知識と日韓の関係の変化を強調したかのようである。序の末尾の日付けは「日露の講和成立の外電に接したる日」としている。

 著書の内容は第一篇地文地理、第二編人文地理、第三編處誌に分け、多様な当時の朝鮮の情況を解説している。その第三編處誌第五章江原道の部分に鬱陵島にフリガナで、ウーリヤントーの文字があり、島を説明し「本島より東南方約30里我が隠岐島との殆ど中央に當り無人の一島有り。俗に之をヤンコ島と称す。」等新しく竹島と命名された島の解説がある。

 鬱陵島の項でヤンコ島を説明したことは、後世ヤンコ島を鬱陵島の属島と主張する研究者に田淵は自分達と同じ考えであると仲間に取り込まれた問題があるうえに、その他にも北緯130度45分乃至53分、東経37度34分乃至31分に位置するとするが北緯と東経が逆で誤記している。韓人の戸数400から500戸で日本人も300人以上居住し、ほとんどが直接渡航した鳥取県人だとしている。同じ時期の明治39年3月竹島、鬱陵島を島根県調査団の一員として訪問した奥原碧雲は、『竹島及鬱陵島』なる著書を『韓国新地理』刊行直後に書くが鬱陵島の位置は中心が北緯37度30分、東経130度53分としている。また人口については、鬱陵島にはまだ戸籍がなく、人口の調査もないとしながらも韓人の戸数約700、移住して来た日本人は300人以上で島根県人が最も多いとして、島根県人218人、次いで鳥取県人28人としている。

 田淵はその他鬱陵島のことを紹介しているが、鬱陵島からは南に約三十里にヤンコ島、竹島があると記載している。直近の明治37年9月中井養三郎が明治政府の内務、外務、農商務大臣に提出した「りやんこ島領土編入●(●=並の異字体)ニ貸下願」には「朝鮮欝陵島ノ東南五十五浬ノ絶海ニ、りやんこト称スル無人島有之候」とある。三十里、五十五浬については1里=3927m、1浬=1852mで換算すると実測の88Kmには『韓国新地理』の方が誤差が大である。リアンコールド島と呼ばれていた島が竹島と名を変えた前後にヤンコ島とかランコ島、りやんこ島等の呼称で記載される事例はそれぞれ同じ程度存在する。『韓国新地理』のヤンコ島は直前の葛生修亮の『韓海通漁指針』(1903年)、岩永重華の『最新韓国実業指針』(1904年)と同じでそれらからの影響が考えられる。正しい地図上の竹島の位置は、東経131度52分で、『韓国新地理』の「韓国全図」では東経では日本の山口県萩市の西端(萩市の中央は東経131度25分)あたりから小郡(おごおり)あたりを通るように書かれているが実際は下松市が東経131度50分だから、より鬱陵島に近く韓国領の東限に入るかぎりぎりの地点に描いていることになる。

 前述したように小藤文次郎の「KOREA」は島嶼では鬱陵島までが朝鮮領であり、その他奥原碧雲が著書に掲載する地図を始めほとんどの図は竹島は日本領の海域に描いている。田淵の誤りは当時の鬱陵島との関係の重視により生じたか、竹島という島が島根県の所属に決定した直後の自らは確認していないが記載する意義を優先した時間的問題から生じたか不明であるが、現在でも竹島を韓国領とする立場や竹島を鬱陵島の属島と考える研究者に自説の補強に利用されたり、韓国政府口上書の「独島が欝陵島の属島であることは独島のいわゆる島根県編入当時の文書に完全に記録されている。これについて『韓国新地理』を書いた日本の学者田淵友彦氏が明瞭に述べた」のような政治的公文書にも田淵の名や『韓国新地理』の名が登場する。また田淵がこの著は小藤博士の調査の成果を利用していると序文に書いていることから小藤文次郎に鬱陵島や竹島調査があったように記すものもあるがその事実はない。

『鳥取県人名鑑』の写真

1,『鳥取県人名鑑』が記す田淵友彦

韓国新地理の表紙の写真

2,『韓国新地理』

鬱陵島の部分の写真

3,「KOREA」に載る鬱陵島の部分

 

おわりに

 『津和野町史』の第四巻には「日本地質学の父小藤文次郎」の項があり、彼の人柄も紹介している。「文次郎は学問に関しては一切の妥協を許さない一徹なところがあった。内外の研究者から送られてくる論文に対しては、すべてに目を通し、入念なチェックを行った。会合などで、論文を発表した学者をつかまえ、歯に衣を着せぬ批評をした。」、「郷土の後輩森外が娘の結婚式の招待客を選ぶ際に、旅先から妻しげ宛てに「小藤文次郎理学博士此人ハ社交大キラヒユエ不参加カ」と手紙に記している。」等は学者肌の人物像が浮かびあがってくる。小藤は一方で弟子が病気になると下宿に見舞ったり、専門外のドイツ語の手ほどきをする等人間味あふれる行動も見せるし、東京大学では学生時代から歌人としても有名だったという。小藤の論文では『地学雑誌』に発表された「朝鮮南部の地勢」、「朝鮮北部の地勢」が当時の朝鮮半島を考察するのに役立つ。

 鬱陵島が属する江原道では襄陽で現地調査をしているが、鬱陵島には渡島していない。平成29年5月に私は小藤文次郎に関する新しい資料の発掘を目的に津和野町を訪れた。森外、西周を始め多くの偉人を輩出した津和野の資料は津和野町郷土館に収容されている。小藤文次郎についても「小藤文庫」として整理されており、「小藤文次郎先生略歴」のほか「桜島噴火論文」を始め9種の論文原稿や『地球発育史』等初めて見る著書も数多くあった。彼が生まれた家はすでになく、「小藤文次郎先生生誕の地」と刻まれた碑が現在の津和野町上新町に建てられていた。

 鳥取県人田淵友彦は「先年小藤博士の実地調査の結果を公にせられたるものあり、本書も亦専ら此報告に依據するの便益を得たるは感謝する所なり」と序に記して『韓国新地理』を世におくった。小藤文次郎の論文等と田淵の『韓国新地理』の内容の対比はまだ行っていないが、その影響は少なくないと思われる。しかし今回小藤作成の「KOREA」なる地図を見る機会を得て、田淵の「韓国全図」と比較すると地図全体の範囲が緯度、経度上で異なるし、書き込まれている地名数や海上の航路にも相違がある。また小藤の方は日本海の東限の島が鬱陵島であるのに対して「韓国全図」には竹島(リヤンコールト岩)も書かれている。

 田淵は本文では前述のように竹島を「ヤンコ島と称す」としており地図との相関性がない。田淵の「韓国全図」の内容は竹島を韓国領とする立場の研究者に利用されることがあるが、小藤の「KOREA」は実直に地質調査をした一研究者の地図として特に取り上げられることはなく泰然として存在感を保持し続けている。

 

(前島根県竹島問題研究顧問 杉原隆)


 

参考文献
〇小藤文次郎について
『島根の百傑』(島根県教育委員会)
『島根県歴史人物事典』(平成9年)
『島根県大百科事典上巻』(昭和57年)
『石見人物抄』(島根社会文化研究所)
『日本地理学人物事典』(原書房)
『朝鮮地名字彙』(東京大学出版部)
・小藤文次郎「韓国北部の見聞」(東邦協会会報明治35年)
・小藤文次郎「太古は朝鮮と日本と地続きなり」
『経済第14号合併記念朝鮮号』(明治43年)
・小藤文次郎原稿「長白山陰王の黄金国」、「岩石圏」、「表題なし」
「韓満異城歴史」、「南洋特産珊瑚礁の燐鉱」
(津和野郷土館所蔵)
・立岩巌「朝鮮ー日本列島地帯地質構造論考ー朝鮮地質調査研究史」
(東京大学出版会1976年刊)
・葉山好和「小藤文次郎の業績」『日本の地質学100年』
・山田俊弘「小藤文次郎の『阿波地理小誌』について」(『徳島科学史雑誌』)
・鈴木理「和田雄四郎と小藤文次郎」(地質調査センター・2014年刊)
・『津和野町史第四巻』(津和野町平成17年刊)

 

〇田淵友彦について
『御大典記念鳥取県人物誌』(1932年刊)
『鳥取県人名鑑』(1999年刊)
『因伯青春の系譜鳥取一中の巻』(1978年刊)
・田淵友彦『韓国新地理』(東京博文館明治38年刊)
・藤井賢二「韓国の主張を考える」(平成29年8月20日の講座レジメ)


〇その他
・奥原碧雲『竹島及鬱陵島』(1907年)
・杉原『山陰地方の歴史が語る「竹島問題」』(谷口印刷2010年刊)
・森潤三郎『朝鮮年表』(島根県竹島資料室所蔵・1986年刊)
・森富「森潤三郎小伝」(『外』77号・2005年刊)
・宮崎幸麿編『好古類纂』(津和野町郷土館所蔵)

・藤井賢二『竹島問題の起原』(ミネルヴァ書房2018年刊)


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