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竹島問題とは何か

 

 昨年8月の韓国李明博前大統領の竹島上陸とその後の日韓の対立は、竹島(韓国名「独島」)に対する韓国人の思い入れの強さを改めて日本人に印象づけることになった。日本海の波に洗われる二つの小さな岩島は、韓国人にとっては「民族の聖地」なのである。

 

竹島問題のはじまり

 

 しかし、意外なことに、韓国人が竹島を意識し始めたのはそう古いことではない。1947年夏にいくつかの韓国紙が、漁業問題を報じる中で、竹島について触れたのが最初である。1945年の敗戦後、日本を統治していた連合国軍総司令部(GHQ)は、日本海と東シナ海の中央に日本漁船の操業限界線(いわゆるマッカーサーライン-以下マ・ラインと表記-)を設け、日本の漁船が竹島に接近することを禁じていた。また、GHQは竹島を日本の行政権が及ばない範囲に入れていた。この二つの指令は日本の領土を最終決定したものではなかったが、韓国はマ・ラインを日韓間の国境線であると誤解し、日本のマ・ライン緩和の要求を朝鮮半島再侵略の意図の現れとして反発した。日本人が出漁できない間に韓国人漁業者が竹島近海に出漁し、1948年には米軍機による爆撃で韓国人漁業者に死傷者が発生するという事件もおこった。この事件は連日報道されたため、竹島の存在をはじめて知った韓国人も多かったに違いない。

 

李承晩ライン宣言と竹島

 

 韓国初代大統領李承晩は1952年1月18日にいわゆる李承晩ライン宣言を発表して、東シナ海・黄海の好漁場からの日本漁船排除および竹島が韓国領であることを一方的に主張した。この宣言は韓国の対米工作の挫折がもたらしたものであった。前年の1951年夏、韓国はマ・ラインの継続および竹島が韓国領であることを、当時作成が進んでいた対日講和条約に盛り込むよう、米国に要請した。しかしこの時代は「領海3海里、公海自由」が原則であり、米国は明確にマ・ライン継続を拒否した。また竹島問題についても、「竹島は1905年ごろから島根県隠岐支庁の管轄下にあり、これまで朝鮮領土として扱われたことはなく、領土主張がなされたとも思わない」(ラスク書簡)と回答した。李承晩ライン宣言は韓国が外交交渉で得られなかったものを一方的宣言で得ようとするきわめて非常識なものであった。このような韓国の行動の背景には日本に対する韓国の優越感があった。すでに1948年に韓国は大韓民国として独立していたのに対し、日本は1952年4月まで連合国の占領下にあった。当時始まったばかりの日韓会談(日韓国交正常化交渉)でも日本に対して連合国(戦勝国)として臨もうとする韓国側代表の姿を見ることができる。

 

竹島の「聖地化」

 

 1953年から翌年にかけて日韓は鋭く対立した。日韓会談は決裂し、主に東シナ海で韓国による日本漁船拿捕が相次ぎ、1953年2月には済州島近海で日本人漁船員が射殺される事件がおきた。竹島でも韓国人が日本の巡視船に発砲して日本人の竹島接近を阻止する事態となり、韓国による竹島不法占拠がはじまったのである。竹島をめぐる日本との論争が繰り返される中で、韓国は竹島領有のためのさまざまな根拠を「発見」した。それらの中でもっとも重要なのが、「独島は1910年の日韓併合に至る日本の朝鮮半島侵略の最初の犠牲の地である」という主張である。日本政府が竹島を島根県に編入した1905年以前に韓国(当時の大韓帝国)が竹島を領有していた事実はなく、これは誤りである。しかし、この主張は韓国人の心を捉え、韓国人に冷静さを失わせ、竹島問題の解決を阻んでいる。以上の経過を理解してはじめて、昨年8月の野田首相談話の意味が明らかになる。彼は、「竹島問題は、歴史認識の文脈で論じるべき問題ではありません。戦後の韓国政府による一方的な占拠という行為が国際社会の法と正義にかなうのかという問題であります」と述べたのである。

 

 

『社会科教育』2013年2月号より特集「戦後史で考える授業日本と韓国=かかわり戦後史のドラマ/竹島問題研究顧問藤井賢二


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